向野 義人
福岡大学スポーツ科学部教授(所属は掲載時のものです)
42歳の厄年に、頑固な咳と痰が続いた。
痰を培養して、起炎菌が固定され、同時に抗生物質に対する感受性テストが施行され、治療に用いるべき薬が決められた。胸部X線撮影では異常はなく、すぐに治るものとたかをくくっていたが、いっこうに治る気配がない。培養を繰り返したが、いつも同じ菌が原因とされ、その菌を叩くことの出来る抗生物質が選択された。頑固な咳と痰は変化せず、とうとうあきらめて放置し、3ケ月が経過した。
抗生物質は人類最大の病苦であった感染症に対する輝かしい成果故に「魔法の弾丸」と呼ばれ、20世紀の奇跡の薬と位置づけられていたのに、裏切られた思いであった。
ある病院を訪ねたとき、漢方専門医の先生から「ひどい咳ですね。どうしたんですか?」とたずねられた。これまでの経過を話すと「これを飲んでみてください」と漢方薬を手渡された。
数包飲んだところ、全く咳や痰が出なくなった。その的確な効果に驚いてしまったが、人に元来備わっている自然治癒力を賦活するとは、このようなことを指すのであろうと、あらためて、自然の能力を活性化する方法論の大切さを知った。
もともと私はこのような自然療法に興味をもって医学を志した。小児頭大の子宮筋腫が灸だけで自然消退してしまうなどの不思議な現象を、父の治療を通じてたくさん見聞し、身体には身体自身を修復してゆく能力があると直感したからであった。近年、癌でさえ自然消退がおこることも多くの書物で報告されている。
しかし、これまで、このような例は体験談として処理され、それがまともに取り上げられることも研究されることもなかった。なぜなら、西洋医学が中心としてきた課題は、病気を引き起こすものの正体を明らかにし、それを叩く武器を開発することであったからである。例えば、細菌感染症に対する抗生物質のように。
しかし、抗生物質の攻撃に対して細菌は絶妙に進化し、世界中で耐性菌の続出という手のつけられない事態が広がりつつある。また、夏に猛威をふるった病原性大腸菌O-157のような新しい強敵も出現してきた。この菌を殺すのは容易だが、産生毒素は青酸カリよりはるかに強力である。
かつて20世紀の奇跡ともてはやされた抗生物質は、もはや「魔法の弾丸」ではなくなり、また、その他の多くの領域でも同様に武器に頼る医療の限界が見えてきた。西洋医学の偉大な成果を否定するものではないが、21世紀に向けて求められているのは、人に備わる自然治癒力についての研究であろう。この領域の研究は遅れているが、それは研究順位を決め、研究資金を分配する立場にある人が関心をもたないからにすぎない。
長年にわたる鍼灸診療を通じてかいま見ることの出来るこの自らのからだを修復していくシステムは、医学者としての想像をはるかに超えた膨大な仕組みの様相を呈しており、この解明には、これまでの医学の枠組みを超えて、物理や工学などの諸科学との密接な連携が必要であろう。
福岡大学コミュニケーションマガジン「ネビュラ」Vol.1より